スクエニと鋼の錬金術師と荒川弘・初音ミク!

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  • さらにどーでもいいこと3と、最後にパピルス感想(?)




    中学時代、吹奏楽部で、みんなをビシバシ鍛えているとつさんの図。
    このとつさんは、ノってる千秋並に怖いです。指揮棒(のかわりに使っていたぶっとい木の棒・怖さ倍増)を必要以上に振り回しています。(笑)

    っていうか、この写真誰が撮ったんだよー!(プンスカ)

    私の青春は、中学時代。この吹奏楽部と共にあります。
    吹奏楽にも、甲子園同じく、夏の大会があります。
    当時広島は全国を目指すことができるA部門と、全国を目指さない弱小・・参加することが意義的B部門がありました。
    私ら、下手糞でね。かろうじてA部門に出てはいましたが、順位は1年、2年とも、A部門出場、最下位の付近を漂っていた、そんな時代です。

    顧問も「私は声楽専門なんだ!」とか言う人だったし。副顧問にいたっては「指揮すら自信ない」とか言う人で。大ホールでやる、某ステージの時、指揮やるハメになって、指揮台に立ってからすがるような目されて、こっちが、先生がんばれ、って小声で言ったことあったもん。(私、一番前だったんで)

    でも、逆に言うと、ほとんど生徒の自由にさせてもらってました。
    転校先が全国狙えるレベルだったんだけど、そこは、ほんとに先生主体って感じで、生徒はついていくだけ・・・確かにレベルの高い練習っぽくて、それはそれでいいかもしれないけど、選曲の自由すらなかった活動は、あんまり楽しくなかった。
    それはさておき。


    私たちが運営することになった3年生の時。
    顧問に、ちょっとした大事件が発生したり、その他もろもろ事件があり、A部門の出場そのものを論議することになりました。
    何日も何日もかけて、みんなで話し合った。これまで、ずっとA部門でがんばってきた。それを私たちが止めていいのか、と。意見はほぼふたつに分かれ。
    結局、ランクを落とし、B部門への出場を決断しました。諦めたんじゃないよ、あれは決断だった。

    それでもやっぱり下手糞だったから、B部門に出ても、上位は狙えないとみんな思ってました。
    だけど、だからこそ手を抜けなかった。がんばって毎日毎日練習して、試験期間中も特別許可貰って練習して、朝練も許可してもらって。
    毎日毎日。ほんと、毎日毎日。(ビバ山の中の学校!騒音問題関係なし!)

    そういや、練習量では、先に描いた全国大会狙える学校より、多かったな・・・

    当日、演奏を終えて、友達が塾があるからと、私たちは部長達を残し、表彰式(ランキング発表)を見ずに帰りました。

    その夜、最後まで残っていた部活仲間から、電話がありました。
    あの瞬間は今も一字一句、鮮明に覚えています。

    とつ:どーしたん?こんな夜遅くに。
    仲間:あのなー、驚かんで聞いてくれる?
    とつ:どーしたん?
    仲間:結果報告、あのなー、あのなー、金、もらったよ!
    とつ:・・・え?
    仲間:金!
    とつ:・・・え?
    仲間:金賞!
    とつ:・・・ぎ、ぎん?
    仲間:違う、金賞!金賞や!一位や!!一位もらったよ!!
    とつ:き、きききききききききき、きん?
    仲間:そう、そう!金賞っっっ!!
    とつ:・・・えええぇえええええええ???!!!!

    というわけで、B部門ながら、一位を頂いたのでした。
    二回聞き返したくせに、銀と間違えた私。
    あの時は、生きてきて一番うれしかったなぁ。ほんと。

    その後、私たちは、12月半ば、3年生で一番長く、部活動をします。
    最初から最後まで、部活と共に駆け抜けた中学生日記でした。

    今でもちょっとだけ思います。もしあの時A部門に出てたら、どこまで行けただろうか。
    元同居人は、この時の仲間で、一度だけこの話をしたことがあります。同居人は当時から「A部門派」で今でもやっぱり「A部門に出たかった」と言っていました。
    でも、決断に「if」はありません。それ以上のことはお互い言いません。
    私は、あの時の決断はあれが最良だったと思っています。だからこそ、金賞と言う素晴らしい結果を頂いたんだと。

    もうひとつ、卒業してから、ちょっとしたご褒美もありました。

    3年間なんだかんだでお世話になりまくった顧問の先生は、先の大事件等々の影響で、結局私たちが、最後の教え子になりました。
    厳しく、怖い人だったけど、いつだって味方でいてくれた、大事な顧問でした。
    先生は一切言わなかったけど、私たちのやることを一生懸命学校にかけ合ってくれてた。(12月まで活動することも、問題になってたこと知ってた、本当は)

    最後の教え子だったのに、いっぱい迷惑かけちゃったことが、悔しかった、それだけが。
    でも、「絶対子どもはつくらーん。いらん」と言ってた人が。
    私らの卒業直前に妊娠して、卒業後、ばったり街中で会った時に、大きなおなかを抱えつつ、幸せそうに「あんたら見てたら子どももええかなって」って、言ってくれたこと。

    高齢出産だったけど、無事生まれたって聞いた時は、本当に嬉しかったのです。



    1年の時、仲のいい子は誰も一緒に吹奏楽に入ってくれなくて。迷って迷って、死ぬほど緊張しながら、ひとりで音楽室の門をくぐりました。
    あの時、その決断が出来て本当によかったと思います。

    嬉しいことばかりじゃない、ある日は、泣いて教室を飛び出したことがありました。ある日は、友を泣かせたこともあり、むちゃくちゃ怒られたこともあり。某所で書いた用務員のおっちゃんに、マンガ走りで追いかけられたことも(笑)。
    音楽室の怪もあり・・・

    今のワタシは、この3年間に形成されました。
    楽しいこと、悲しいこと・・・この3年間に経験した心の経験は、私の財産です。
    この3年がなければ、ワタシはまた違ったワタシであったでしょう。

    そして今、この中学時代の私は、今の私に教えてくれます。
    人生後悔しない様に生きる、その本当の意味を。

    そして、鋼でいう、『等価交換』その意味を。
    荒川さんでも、エドでも、アルでも、ロイさんでもなく。昔の私が教えてくれるのです。


    という感じで、これ前置き(ェ
    こっから本題、遅ればせながら、「パピルス」の荒川インタビュー読みました。
    「鋼終わるんだな・・・」ってなんだか実感。凄く実感。
    最後に待っているのは『等価交換』。そう、やっぱりコレがなくちゃね。

    驚いた。荒川弘は「あの論法は壊せる」と言いました。
    一体何を見せてくれるんだろう。この人は。
    荒川弘の、エドやアルの等価交換の行き着く先。

    昔の私の教えてくれる『等価交換』とどう違うのか、もしくは一緒なのか。
    今すぐにでも知りたいような、まだまだあと10年くらい知りたくないような。

    今は、複雑な気持ちでいっぱいです。


    papyrus (パピルス) 2007年 06月号 [雑誌]

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